福澤諭吉と慶應義塾研究会

福澤諭吉と慶應義塾研究会

開催日
2022年11月26日16:00~18:00

場 所
エアレジデンス・ワークルーム

内 容
小泉信三著「私の福澤諭吉」を材料に、フリートーキング形式で福澤諭吉像と慶應義塾に関しての中身の濃い意見交換会となりました。今回は、著書の第1章「福澤先生」から第4章「福澤の歴史観」までの約90ページに限定しました。小泉先生の視点から掘り下げた福澤諭吉像は、きめ細かく、濃厚な内容であり、読み応え十分であり、勉強会に参加された方々からも貴重な話が次々と出され、大変有意義な研究会となったのではと思っております。

次回も同様の形式で、残りページの「福澤諭吉書翰解題」(95ページ~)を皆様と共に研究したいと考えております。

講師兼司会進行係
小林清司

出席者
原会長、前田幹事長、鈴木彬、田中信彦、堀江副武、飯塚保弘、下村壽嗣、合計8名

懇親会
エアレジデンスのサロンにて開催。
ホテルのサロン仕立てのインテリアと一般飲食店では当たり前の客の喧噪が全く無く、閑静な環境の中で更に会話が弾み、十分楽しめたと思います。その上、料理とお酒が極廉価で、提供されているので一人当たりの会費は、¥1,000弱で済みました。勿論、料理やお酒の種類は限定されていますが、勉強会の懇親会としては充分であろうかと思っております。

以 上

小林清司(世話役)

One response to “福澤諭吉と慶應義塾研究会”

  1. 三武英行 より:

    [質問] 足跡楽焼(盃カ)をご存じ無いでしょうか。

    1.福澤先生と交流人物で ”塚本乾也”の卽席樂燒(盃カ)の所蔵が無いでしょうか。
     これは明治39年4月29日午前中卒業式、午後同窓会が開催され、
     その際の余興3番目に庭で小さな焼窯を塚本乾乜(けんばが正しく、乾也
     けんやは、塚本の師匠です)が用意してその場で「独立自尊」と書かれた
     文字を焼いて配ったと解読できます。
     誤読でしたら訂正頂けるとありがたいです。

    2.さらに勝海舟作・賛の陶器も調査しており国内の作品画像はほぼ全て
     入手済み、米ボストン美術館モースコレクションの1点を残すのみです。
     海舟日記で陶器に関する人物関連も調査済みです。
     福澤諭吉と海舟の交流を示す陶器は所蔵無いでしょうか。

    3.私の調査原点は「三浦乾也一門」ですでに2著があり、今回の
     弟子塚本乾乜、師匠三浦乾也、勝海舟賛の陶器や今戸焼、京山焼。
     弟子・伊東貞文(乾谷)の漆器や廣本乾随の市松人形。尾形乾山が琳派
     である尾形光琳の弟で酒井抱一、池田孤村、野澤堤雨等、琳派の書画
     の所蔵が無いでしょうか。堤雨(ていう)は孤邨の弟子、抱一の孫弟子
     と云えます。

    [参考文献]
    国会図書館デジタルコレクションで[キーワード:塚本乾也] (つかもとけんや)
    で検索すると以下ヒットします。
    慶應義塾學報 (103) 雑誌 (慶應義塾學報發行所, 1906-05)
    「44コマ: りしが、尙ほ庭上には”塚本乾也”の卽席樂燒ありて、各自筆を
    執りて記念の爲め合作に盃を認め、之を以て互ひに呑み換はすもあれば、」

    [状況]
    三浦乾也は、幼くして陶器を習い、谷文晁に2年ほど学んだ絵師でも
    あります。嘉永3年後の老中井伊直弼から書棚を受注して納入。
    全国藩主で茶道、陶芸収集家から応需で作品を作り腕を上げました。
    直弼は、乾也の弟子とは言えませんが彦根藩の陶芸に協力してます。

    嘉永6年6月2日ペリーが浦賀に来航すると老中阿部正弘の命で
    黒船に近付き黒船を写し、江戸に帰って黒船模型3艇制作。幕府と
    水戸藩へ寄贈。翌年嘉永7年8月25日頃-9月6日江川太郎左衛門
    家臣4人とオランダ船スンビン号に乗り込み、艦長、技師を軍艦、
    製鉄、硝子製造を勉強します。このスンビン号は翌年長崎に再来し、
    幕府に寄贈され、日本初の蒸気船観光丸となり、海舟で有名な海軍
    伝習所となります。

    安政2年に乾也は仙台藩に招致され、安政4年11月松島寒風沢島で
    日本人設計の軍艦「開成丸」となり完成しました。海舟は晩年向島に
    住み、乾也も明治10年から22年没年まで向島長命寺で作陶、合作花瓶
    の画像が存在します。乾也窯作で濱口梧陵建碑記念の茶碗が現存し、
    梧陵(明治18年米旅行中客死)と海舟についても調査済みです。

    明治18年5月28日濱口梧陵の遺骸が汽船アラビック号で横浜港に
    入港、23日間留置きされた際、福澤諭吉・海舟らが参列した偲ぶ会
    が行われ、参列者名簿を探していますが、見当たりません。
    その後、遺骸は神戸に送られ、さらに小型蒸気船で和歌山県有田郡
    廣村へ輸送されました。

    明治12年8月29日と推察。グラント将軍が来日した際は、前述の
    塚本同様、将軍の前で弟子3人を連れて楽焼を披露しました。この際
    の茶碗を米博物館など4館を調査しましたが、見当たりません。

    万延元年遣米使節子孫の会とは昨年2月、入会審査で直接は関係無し
    となり、入会はできませんでしたが、陶芸関係として未だに調査して
    います。海舟の咸臨丸と別船で太平洋横断したことから、関係者の
    陶芸品がないかも継続課題です。

    乾也は安政4年水戸藩の反射炉で大島高任が日本で最初のガス燈を
    点灯したことにも関係しており、ガス燈、石炭、耐火煉瓦、製鐵高炉
    まで調査を継続しています。
    乾也の嫡男は石井鼎湖、嫡男が柏亭(画家)、三男が鶴三(画家)で孫に
    当たる鶴三は乾也の命名です。上野美術学校開校に関係しています。

    これら何か、福澤先生との接点、キーワードが合えば、急ぎませんが
    知りたいです。長文にて失礼します。

    既に慶應義塾福澤研究センターには、問合せ済みで現存しないことを
    確認済みです。

    宜しくお願いします。
    埼玉県志木市本町2-14-28
    携帯 080-1392-7787

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