第7回歩こう会 〜日吉〜
第7回の歩こう会を2019年10月26日(土)に実施致しました。
参加者
阿部、荒井、有田、飯塚、金森、黒柳、佐賀、原、堀江、安田、山中、渡邊、(12名、50音順、敬称略)
概要
今回の歩こう会は日吉のキャンパスと地下壕の見学です。
午前中は日吉キャンパスを見学。安田さんが慶應義塾創立150周年記念式典などのエピソードも交えて、各施設を詳しく解説してくださいました。日吉は近代的で開放感のあるキャンパスに生まれ変わっており、私(山中)が在学中の時とはだいぶ様変わりしていました。
来往舎内のファカルティラウンジでの昼食をとり、午後は日吉地下壕へ。日吉台地下壕保存の会の皆さんにガイドしていただきました。慶應義塾の第一校舎や寄宿舎が戦時中に帝国海軍司令部に使用されてこと、また日吉キャンパスの地下には地下壕が掘られ、そこから戦艦大和をはじめとする数多くの特攻命令が出されていたことなど、恥ずかしながら私は今回初めて知りました。
地下壕内部は私が想像していた空間とは異なり、息苦しさを感じることがありませんでした。ここは防空壕ではなく、軍事施設だったため快適な空間に仕上げる必要があったのです。
戦争経験者が高齢になり、直接戦争の体験談を聞くことが年々難しくなっています。地下壕という戦争の生き証人を保存して、次世代に残して行くことが大切だと実感した一日でした。
当日の写真
https://photos.app.goo.gl/SCcK8JkJ6i9fAzBaA
散歩コース
詳細はGoogle Mapsでご覧いただけます。
1. 日吉駅
10:30に集合。歩こう会では久しぶりの晴天に恵まれました!駅前では、K.M.P New Sound Orchestraという塾生のジャズバンドがライブ演奏をしていて駅前の人たちを楽しませていました。
2. 藤原洋記念ホール(協生館)
2008年に竣工した「協生館」のシンボル的存在。インターネット総合研究所(IRI)の藤原洋所長による、2008年の慶應義塾創立150周年記念事業への多大な支援に感謝して命名されたものです。第一級の音楽ホールであると同時に、新しいコンセプトの会議場としての機能も備え、約500人を収納可能です。
以下の写真のステージ背面の大扉ですが、開けることができるそうです!扉を開くと陸上競技場が目の前に広がり、とても開放感があるとのこと。なんと、扉は電動ではなく、手で開く必要があるそうです。
つづいて協生館の7階へ。7階からの眺望は素晴らしく、ランドマークタワーとスカイツリーの両方を眺めることができました。
3. ファカルティラウンジ(来往舎)
2002年竣工。1階と2階は会議室、シンポジウムスペース、レストランなどがあり一般の人でも入れるますが、3階から上はすべて教員室になっています。昼食は1階のファカルティラウンジでとりました。店内は明るく開放的でホテルのラウンジのようなレストランです。教職員用のレストランではありますが、12:15〜13:00以外であれば、塾員も利用可能です。
4. 第4校舎独立館
2009年竣工。独立して生きる力を育むことを目的とした学生のための施設で、様々なサイズの教室を合計35室も備えています。吹き抜けのアトリウムと中庭のおかげで、屋内の空間でありながら、屋外の心地よさを感じさせるデザインになっています。塾生はこの学びの舎で生き生きと過ごしていることでしょう。
5. 日吉地下壕
13:00に日吉駅に集合し、「日吉台地下壕保存の会」の皆さんと合流。約2時間半のガイドツアーの始まりです。ツアーの参加者は60人で満員御礼。20人づつの3班に分かれて見学することになりました。はじめに、往来舎に移動し、今日のツアーの概要と歴史背景の説明を受けました。内容は以下の通りです。
地下壕の概要
- 地下壕の見学は約40分。電気施設はないので、真っ暗。懐中電灯が必要。
- 地下壕は全部で4つある。現在、見学できるのは①Aの「連合艦隊司令部地下壕」のみ。戦争で実際に使われたのは①〜③。
- なぜ地下壕の建設場所として日吉が選ばれたのか?
- 大本営のある霞ヶ関と海軍のある横須賀の中間地点にあり、地の利が良かった
- 地上から40メートルの高台にあり、無線の受信環境が良好だった
開発されて10年経っており、交通と通信のインフラが整っていた - 地下壕が掘りやすい地質だった
- 第一校舎をはじめとする、鉄筋の頑丈な建物があり、すぐに利用可能だった
第一校舎の歴史
- 第一校舎は1934年に建てられた。手狭になった三田から日吉に大学予科を移転した。
- 第一校舎のレリーフの真ん中には、ペンマークを挟んで、左側に「1934」、右側に「2594」という数字が入っている。「2594」は皇紀。神武天皇が即位した年を元年とする年号。
- レリーフの下にはカップの形をしたモニュメントがある。よく見ると、日本を中心とした世界地図が型どられていることが分かる。塾生が国際的な視野を持って世界で活躍してほしいという願いが込められている。
- 1943年、満20歳以上の学生も徴兵されるようになり、11月19日、予科生500名の学徒出陣壮行会が陸上競技場で行われた。
- 1944年3月、慶應義塾大学は海軍省と賃貸借契約を結び、連合軍令部第三部が日吉にやってくることとなった。
- なぜ第一校舎に来たのか?
- 学徒出陣や勤労動員により学生の数が減り、部屋に余裕があった
- 第一校舎はとても頑丈な作りだった
- 終戦を迎えると第一校舎はアメリカ軍に接収された。1949年10月1日の返還式を経て、第一校舎はようやく学び舎として復活した。
来往舎での説明が終わり、いよいよここからがツアーの始まりです!
まむし谷
- 戦後、海軍は1週間で日吉から撤退する。その際、すべての機密書類を蝮谷で焼却した。
- 下の写真の工事現場の下には、海軍の航空本部の地下壕がある。現在は入り口が埋め立てられており、残念ながら見学することができない。
地下壕の内部
- 蝮谷の奥に地下壕への入口がひっそりとたたずんでいる。この入口はストリートビューでも確認できる。
- 地下壕内部の壁はとても頑丈な作りになっている。壁をくり抜いた部分を写真を見ると分かるが、壁の厚さは40センチもある。
- 地下壕は地下30メートルのところにある。空気を取り入れるための通気孔は30メートル上の地上までつながっている。
電信室・暗号室
- 電信室と暗号室は地下壕の中枢。天井が高く、壁もモルタルできれいに仕上げてある。天井には蛍光灯があり、昼間のように明るかった。
- 電信室は受信専用。敵に知られないように無線による艦隊への直接の命令はしていなかった。命令はいったん船橋の無線送信所に送り、そこから無線で艦隊に送っていた。
- 大和への特攻命令も遠く離れたこの日吉の地下壕から出された。
作戦室
- 連合艦隊の司令部は地上にある寄宿舎の中寮内にあった。空襲の際は126段の階段を降りて、この地下の作戦室に避難して指揮命令を取っていた。
6. 慶應義塾キリスト教青年会館
- 1898年、慶應義塾大学にキリスト教青年会(YMCA)が設立された。設立40周年を記念して、1937年にこの教会が建てられた。建学の精神がキリスト教によらない学校にチャペルがあるのはとてもめずらしい。
- 1944年、慶應大学が海軍省と賃貸借契約を結ぶと、このチャペルは外国語のラジオ放送を翻訳し、第一校舎に届ける役割を果たすようになった。
- 終戦後この教会もアメリカ軍に接収された。返還後、今日まで慶應義塾YMCAの活動の場として使われている。
7. 耐弾式竪坑通気孔
- 地下壕で見た通気孔の地上部分。屋根の厚さは1.2メートル。1トン爆弾が落ちても壊れない設計になっている。
- 手前には弥生式竪穴住居跡がある。古代と近代の建築物が同居している、貴重な風景。
8. 寄宿舎
- 1935年に谷口芳郎東工大助教授の設計により作られた。この寄宿舎も横浜市の歴史的建造物に指定されている。
- 床暖房も完備され、トイレは洋式の水洗。大変立派な寮だった。ローマ風呂と呼ばれた立派なお風呂も設置されていた。
- 1944年、寄宿舎に連合艦隊司令部が入ってきた。寄宿舎の中央の建物の横に126段の地下階段を作り、空襲時に地下壕の作戦室へ降りられるようにしていた。
- 戦後、米軍に接収されるとローマ風呂はコンクリートで埋められ、ダンスホールなどに使われた。
文責: 山中 泰博