第5回歩こう会を実施しました

第5回歩こう会を実施しました

参加者

秋元、金森、黒柳、小出、小山、佐賀、下村、鈴木、原、堀江、安田、山中(12名、50音順、敬称略)

概要

10時に人形町駅に集合。午前中は人形町、昼食を挟んで午後は日本橋を散歩しました。今回は初の試みとなる、ガイドさん付きの街歩きを実施しました。ガイドを担当してくださったのは中央区文化財サポーターの飯塚さんと桜井さん。人形町のコースはガイドさんが考えてくださいました。

全体的に、大都会でありながら今でもたくさんの神社が残っていることが印象的でした。このエリアには、「日本橋七福神巡り」という8つの神社を巡るコースがあるぐらい神社が多いのです。今回の散歩ではそのうちの6つの神社を回ることができました。

数ある神社の中でも特に印象的だったのは、出世稲荷神社。なんと、社殿がマンションの敷地内の自転車置き場の奥にありました。普通に歩いただけでは、まず見つけることができないでしょう。マンション建設時に廃社にせず、歴史ある稲荷を残してくれた日本橋住民の努力に頭が下がる思いです。

午後の日本橋散歩では、日本橋魚河岸跡や銀行発祥の地など、まさに日本橋が日本の中心であったことを示す数多くの史跡を巡ることができました。

あいにくの雨の中での開催となりましたが、神社や史跡を通して、日本橋の街の歴史への理解が深まり、文化的で健康的な一日となりました。万歩計は午前と午後合わせて約9,000歩に達しました。

今回参加された方も参加されなかった方も、次回の歩こう会へのご参加、心よりお待ちしております。

当日の写真

https://photos.app.goo.gl/bNxuxaqJfPoZfKjD7

散歩コース

以下をクリックすると、Google Mapsで、より詳細なルートをご覧いただけます。
https://drive.google.com/open?id=1dq_a3VHIAd2dZYi5LQInW8b2EmgQb40e&usp=sharing

集合 人形町駅A2出口

10:00に集合。今回は、中央区文化財サポーターの飯塚さんと桜井さんにガイドをお願いしました。ガイド付きのツアーは今回が初の試みです。料金は1人300円と格安でした。

1. 蛎殻銀座跡碑 (かきがらぎんざあとひ)

「かきがら」と読みます。昔は、牡蠣の殻の堆積した海浜であったことから、この町の地名は「蠣殻町」と呼ばれたそうです(諸説あり)。銀貨の製造を行う「銀座」が1800年から1869年の69年間、この地にありました。

2. 東京水天宮 (とうきょうすいてんぐう)

日本橋七福神の一つ、弁財天が祀られています。

久留米藩の歴代藩主、有馬家により崇敬されていた神社で、有馬家との関係が深いです。水天宮の本宮は久留米市にあります。東京水天宮はその分社です。現在の宮司は、有馬家第16代当主・有馬頼央(よりなか)氏。

江戸時代、水天宮の古くなった鈴の緒をお下がりとしてもらった妊婦さんが腹巻きとして使ったら、安産でした。その御利益は評判になりましたが、大名の上屋敷なので入れません。そこで人々は、塀の外からおさい銭を投げ入れました。そんなにご信仰いただけるならと、有馬家は毎月5日、お参りできるように門を開きました。そこでできた言い回しが、「情けありまの水天宮」。江戸の大流行語になりました。

2016年4月に社殿の改築が完了し、新社殿で参拝できるようになりました。

3. 松島神社 (まつしまじんじゃ)

日本橋七福神の一つ、大国神が祀られています。大国神は大黒天が元になり、大国主命と神仏習合して出来た神道の神です。

明暦の大火(1657年)以前、周囲は歓楽街で人形細工職人、呉服商人、歌舞伎役者、芸妓等々、芸能関係や庶民の参拝によりたいへん賑わいました。

4. 末廣神社 (すえひろじんじゃ)

日本橋七福神の一つ、毘沙門天が祀られています。勝運を授け、災難をよける神様として、400年以上前から信仰されています。

末廣神社は、この地にあった吉原の守り神さまでした。1675年、社殿を修復した祭に、由緒の良い末廣扇が見つかったことから、これに因んで「末廣神社」と名付けられました。

5. 玄冶店 濱田家 (げんやだな はまだや)

人形町にある高級料亭として、有名人や政治家など多くの人がこの料亭を利用しています。ミシュランガイド東京版での初三つ星8店のひとつで、料亭としては初の3つ星です。

濱田家は大正元年に、歌舞伎の舞台としても知られる玄冶店(げんやだな)の跡地に開業しました。以来、100年以上、料亭としての伝統を守り続けています。

フジテレビアナウンサーのミタパンこと三田友梨佳さんの母、三田啓子さんは、ここ濱田家の女将です!父の三田芳裕さんは慶應義塾大学商学部卒で明治座の社長をつとめています。

6. 橘稲荷神社 (たちばないなりじんじゃ)

当稲荷ははじめ御殿山にあったものが、のちに江戸城内へ移り、さらに岡本玄冶に賜ってこの地に移されました。
稲荷名の橘(たちばな)は岡本家の元姓に因んだとされます。

数百年にわたり、素朴な信仰の対象として土地の人々により守り継がれて来ました。特定の個人や企業の所有ではなく、町のお稲荷さんとして親しまれています。

7. 玄冶店跡 (けんやだなあと)

玄治(げんや)店(だな)と読みます。

江戸時代、この辺りは幕府の医師であった、岡本玄治の屋敷があったことから、玄治店と呼ばれていました。

岡本玄冶は京都の医者でしたが、1623年、上洛中の徳川家光が江戸へ戻る際に招かれ、幕府の医師となりました。徳川家光は岡本玄冶を重用し、家光の大病を全快させたことで、白銀200枚を賜ったことが記録に残っています。

8. 堺町・葺屋町芝居町跡 (さかいちょうふきやちょうしばいまちあと)

江戸時代の初期に沼地を埋め立てた場所で、堺町と呼ばれていました。1656年頃、堺町は半分に分かれ、西半分が葺屋町となり、東半分が堺町として残りました。

中村座や市村座といった芝居小屋、人形芝居小屋、お茶屋とかが立ち並んで賑やかな街でした。人形芝居のための人形師も多く住んでいたことから、人形町と呼ばれるようになったそうです。

下の写真は歌川豊春の「浮絵堺町葺屋町顔見世夜芝居之図」です。11月の「顔見世興行」で賑わう堺町と葺屋町の芝居小屋と客の様子を描いたものです。この辺りは大変なにぎわいだったことが分かります。

9. 出世稲荷神社 (しゅっせいなりじんじゃ)

マンションの敷地内の駐輪場の奥にあります。こんなところに神社があるとは!

関東大震災で社殿が焼失してしまいましたが、すぐ近くの椙森神社の再建時に取り壊しで出た材木を使い、昭和6年に再建されました。初代市川團十郎が、日参して祈願し名を上げたことから、出世稲荷神社と称されるようになりました。以来、芸能関係者などからも信仰の厚い神社です。

10. 椙森神社 (すぎのもりじんじゃ)

「すぎのもり」と読みます。日本橋七福神の一つ、恵比寿神が祀られています。

平安時代に平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所といわれています。

江戸時代には、江戸三森(烏森神社、柳森神社、椙森神社)の一つに数えられ、江戸庶民の信仰を集めました。江戸城下などの火災で寺社が消失し、その再建の費用のために有力寺社で当りくじである富興行が行われましたが、椙森神社の富も人々に親しまれました。それを記念した石碑である「富塚の碑」が建てられています。

11. 小網神社 (こあみじんじゃ)

日本橋七福神の一つ、「福禄寿(ふくろくじゅ)」と「弁財天(べんざいてん)」が祀られています。

強運厄除、金運アップのパワースポットとしてテレビでも紹介される、有名な神社です。東京大空襲の戦災を免れたり、第二次世界大戦の際、この神社の御守を受け戦地に赴いた兵士が全員無事帰還したことなどから、強運厄除の神様として崇められるようになりました。

現在の社殿は関東大震災後の昭和4年に、明治神宮を造営した東京一の宮大工・内藤駒三郎氏が指揮して建てられました。日本橋地区で唯一現存する戦前の神社建築で、中央区有形文化財に指定されています。弁天様が祀られており、「東京の銭洗弁天」と呼ばれています。

番外編

  • ガイドの桜井さんは受験の時に小網神社で合格祈願をしたところ、慶應義塾大学に見事合格したそうです!
  • ガイドの飯塚さんいわく、日本橋小網町には、「喜代川(きよかわ)」という地元の人に大変有名なうなぎ屋さんがあるそうです。

12. 西郷隆盛屋敷跡 (さいごうたかもりやしきあと)

西郷隆盛の屋敷跡は、現在は日本橋小学校となっています。

西郷隆盛は函館戦争が終了すると故郷の鹿児島に帰り、のんびりとした生活をしていましたが、新政府からの再三の要請で、1871年に上京し、参議に就任しました。その時から西郷はここ日本橋小網町に住みました。1873年に征韓論に敗れて鹿児島に帰るまでの約2年間ここに住みました。

2600坪もある広い屋敷には書生を15人ほど住まわせ、下男を7人雇い、猟犬数頭を飼っていたといわれます。

13. 大観音寺 (おおかんのんじ)

「だいかんのんじ」ではなく「おおかんのんじ」と読みます。人形町は神社が多い町で、お寺は大観音寺だけといってもよいぐらいです。

明治13年に創建。本尊の銅仏は、北条政子が井戸から掘り出した古鐵(ふるがね)の正観音の御髻(みみづら)から霊験を得て、鎌倉に創建した新清水寺に祀られていたものだといわれています。

14. 谷崎潤一郎生誕の地 (たにざきじゅんいちろうたんじょうのち)

谷崎潤一郎は祖父が経営するこの地にあった「谷崎活版印刷所」で、1886年に生まれました。当時の住所は日本橋区蛎殻町。祖父の会社は経営不振のため潤一郎が3歳のときに売却されます。叔父の笹沼家より学資援助を受け、明治41年には東京帝国大学国文科に進みました。在学中から「刺青」「麒麟」を発表。文芸界で名を成します。

谷崎潤一郎は「幼少時代」に、日本橋人形町で過ごした幼少期の回想を書いています。そこには、鎧橋方面から来る都電、水天宮、人形町通り、甘酒屋、玩具の「清水屋」、佃煮屋の「ちとせ」、親子丼で評判の「玉ひで」などが登場します。

15. 茶ノ木神社 (ちゃのきじんじゃ)

日本橋七福神の一つ「布袋尊」が祀られています。神社の周囲に巡らされた茶の木の緑が見事でこの名がついたと伝えられています。また、屋敷内だけでなく、町方にも火災がなかったので火伏の神といわれています。昭和60年に布袋尊を遷座して、日本橋七福神詣りに加わることになりました。

16. 日本橋魚河岸跡 (にほんばしうおがしあと)

江戸初期から、大正12(1923)年関東大震災を機に、築地へ移転するまでの間、魚市場がこの日本橋にありました。

徳川幕府から江戸湾内の漁業を許された摂津国佃村出身の漁師達が、江戸城に納めた残りの魚を日本橋で売るようになったことからと伝えられます。以来、市場があった日本橋の北詰東側一帯は、船積みされた鮮魚を売る人や、それを求める人達で溢れ、1日に千両の金が動くと言われる程大きな賑わいを見せていました。

また、城下の人々の貴重な蛋白源としての役割がここで果たされていました。
現在は、日本橋北詰の東側に、この界隈が魚市場発祥の地であったことが刻まれた「魚河岸記念碑」が建っています。

17. ニホンバシ・イチノイチノイチ

昼食をとったお店です。実はこのレストラン、「缶つま」で有名な国分グループの本社ビルの1階に入っています。住所はもちろん、中央区日本橋1-1-1です。

国分グループの社長は慶應義塾大学法学部卒の国分晃さんです。

一缶一万円もする缶詰も売っています。贈答用に人気だそうです。Barコーナーでは「缶つま」とお酒を一緒に楽しめる「缶つまBar」を2018年の6/1にオープンしています。

18. 板絵着色お千世の図額 (いたえちゃくしょくおちせのずがく)

「板絵着色お千世図額」は、昭和13(1938)年3月、明治座で泉鏡花原作の「日本橋」が上演された折に、主人公で芸者のお千世を演じる、新派の名優・花柳章太郎が、日本橋西河岸地蔵堂に奉納した板絵です。大正4(1915)年の初演の時、当時無名だった花柳章太郎は、お千世役を願い、この地蔵堂に祈願をしたところ、念願かなって役を手に入れることができ、また、これが彼の出世作となりました。

日本橋檜物町に住んだ美人画の画家小村雪岱により描かれた「半玉姿のお千世」の両脇には、章太郎と泉鏡花の自筆と思われる「桃割に結ひて貰ひし春日かな(章太郎)」「初蝶のまひまひ拝す御堂かな(鏡花)」の句が添えられており、区民有形文化財に指定されています。

19. 一石橋迷子しらせ石標 (いちこくばしまよいごしらせいししるべ)

安政4年(1857)日本橋西河岸町の町人たちが資金を出し合って建立した石柱で、正面に「まよひ子のしるべ」左側の「たづぬる方」には迷子の特徴を記した紙を、右側の「しらする方」には迷子の所在に関する情報を記した紙を貼って使用しました。

20. 竹久夢二港屋跡 (たけひさゆめじみなとやあと)

「港屋」は、大正3(1914)年、画家・竹久夢二(1884~1934)の元妻・岸たまきが開いたお店で、夢二が創作図案を染め出した浴衣、帯、半襟、手拭、風呂敷、版画、千代紙、便箋等、夢二自らが手がけた品々を販売していました。また、この場所は、夢二が日本橋の老舗紙問屋の一人娘で、夢二にとって生涯の恋人となった、笠井彦乃に出会ったことでも知られています。

「港屋」は、二年で閉店した間口わずか2間(3.6メートル)のお店で、現在は、その跡地に碑が建っています。碑面には、夢二作詩、多忠亮作曲で、大正から昭和にかけ大流行した「宵待ち草」の一節「待てど暮らせど来ぬ人を」と刻まれています。

21. 名水白木屋の井戸 (めいすいしらきやのいど)

日本橋の南側にあった白木屋は、北側の越後屋と並ぶ、大呉服店。

江戸時代、下町一帯の井戸は水は塩分を含んでいて飲料に適しておらず、住民たちは苦しんでいました。そこで、1711年、白木屋2代目の当主、大村彦太郎は白木屋の店内に井戸を掘りました。すると、たまたま井戸の中から一体の観音菩薩像が出たのを機に、こんこんと清水が湧き出したと言われています。

以来、周辺住民のみならず、諸大名の用水ともなって「白木名水」とうたわれました。

22. 第一国立銀行跡・銀行発祥の地

明治6年(1873年)、渋沢栄一が中心となってこの地に第一国立銀行を開業しました。これが日本最初の銀行です。初代の建物は当時では珍しい日本人の設計で、その和洋折衷の美しさは錦絵にもなったほど。東京の名所でもありました。

現在跡地は、みずほ銀行兜町支店になっており、当時の建物は残っていません。みずほ銀行の入口脇に銀行発祥の地の銘板が設置されています。

23. 山本山 ふじヱ茶房 (やまもとやまふじえさぼう)

最後に立ち寄ったお店です。一人ひとりにお茶を淹れてくれます。この店でしか味わえない玉露、煎茶、季節の和菓子もいただけます。抹茶と和菓子がセットになった、天下一 (1,320円) がおすすめです。

1738年、長谷宗円が、現在にも受け継がれている日本煎茶の基礎である「宇治製法」を発明しました。発明した煎茶は美しい黄緑色と、適度の渋み、苦み、旨味、甘味を実現した画期的なものでしたが、従来と全く違うこの茶葉を評価してくれる茶商はいませんでした。宗円が最後に訪れたのが山本屋。感銘を受けた山本山の4代目は、その味を即座に認め、小判3枚で買い取り、翌年の購入も約束しました。

この煎茶に「天下一」と名付けて売り出すと、江戸そして、全国で圧倒的な人気を博し、山本屋は大きな評判と莫大な利益を挙げました。

5代目は「狭山茶」を発掘。6代目は、茶葉を露のように丸く焙ることを思いつき、甘露の味わいの絶品に仕上がることを発見します。これこそが、今日にも至る高級茶葉「玉露」でした。

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